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来週、台北へ行こうと思っていたのだが、SARS騒ぎで結局ドタキャンした。
自分ひとりの危険の問題ならいいけれど、2次感染するとなるとちょっとな…、と確かに内心、少しは思っていた。WHOのサイトはずっとチェックしていて、これ以上、広がらなければいいな、とは思っていた。が、とにかく外圧である。"これだけ大騒ぎになっているのに、行くのか?2次感染するかもしれないのに行くのか?まわりに移すつもり?"的な視線。
結果的に感染せずに帰国したとしても、身勝手なヤツとレッテルを貼られ、なんだか村八分になりそうな雲行きで、さすがにひいた。イラク戦争でこれだけ人が死んでいても沈黙しているのに(このテの話題は、熱い議論になりやすい面もあるわけで。業務履行上、黙っているのが賢いといえば賢いのだろうが)、自身のこととなるとコレだよ…、少しはその想像力で、空爆や劣化ウランにさらされている人たちの身になってみたら?とウンザリした。
台湾へは行きたかった。
2次大戦後、共産党V.S国民党の戦いに敗れて、蒋介石が台湾へ逃げ込んで成立した"中華民国"。当然、原住民はいるし、台湾にもともと長く住み着いている中国人の本省人、それと蒋介石が新しく率いてきた外省人。台湾とはそういうモザイク社会であり(今は各自「新台湾人」と思っている人々が多いようだけれども。よくぞここまで比較的穏やかに移行したものだ)、そして一党独裁の"国"だった。それがいつの間にか、民主的な"国家"へと変化している。それが不思議だった。だから台湾史を少しは勉強しだした。そして確かめたいと思った。
そう。独裁、独裁、とフセインのことをアメリカは罵るけれども(そして日本は北朝鮮をね)、戦争なくして独裁→非独裁(「民主化」とも云うのだろうけれども。民主主義の定義については色々あると思うので、非独裁というに留める。「政治犯がいない」ということからその自由度を想起してください)への変貌は可能なのだ。それを台湾が証明している。「民主的」(或いは開放・自由化?)であることこそ、唯一、北京政府に対抗できる手立てだと、自由化へ加速をかけていった台湾(そう、今もSARS騒ぎに絡めてWHOの加盟させろと台湾は迫っているのだけれども、北京政府の方は、台湾は中華人民共和国における台湾省で中国の一部だから加盟する必要はないとつっぱねている。しかし、ここでWHOが台湾の加盟を認めれば、台湾はようやく国際社会において国家として扱われるキッカケになるというわけだ。いやはや、このバトルはエキサイティング!SARS騒ぎのせいで北京政府の言い分は不利になるばかりのように思えるのだけれど、さてこの騒動の行方は?)。
だから行ってみたかった。今だから、行ってみたかった。自分の目で確かめてみたかった。
つまりね、人間ってのは、たいてい自分がある場所で足場を得ると、"それじゃあ、どうする?"って将来のことを考えはじめるもんでしょう。何がいまわしいかって、自分に"それじゃあ"っていう先のことが、からっきし与えられてねえってことがわかったときくらい、無惨なことはねえですよ。気が狂うんじゃないかと思うくらい、うちのめされちまいますよ。そのときその人間の口からは、ほとんど聞きとれぬくらいの声の独り言がもれてくるんですよ。
"これで生きてるっていえるか?これなら、死んだ方がましだ"
それから何日かたつと、その声は大声に変わってわめきはじめるんですよ。
"これでも生きてるっていえるのか?死んだ方がまだましだ"
このわめき声は、旦那さん、感染していくんですよ、そして皆が一斉にわめくんです。
"これで生きてるっていえるか、死んだほうがまだましだ"ってね。人間ってのは普通、死ぬことを、それほど好きじゃぁないもんですよ。それで、俺たちは他のことを考えざるを得なくなるんですよ。 「彼岸へ」ガッサーン・カナファーニー/著より
筆者はPFLP(パレスチナ人民解放戦線)の公式スポークスマン(72年に車に仕掛けられたダイナマイトで暗殺される)。1936年、今のパレスチナ領域内にあるアッカーに生まれ、彼が12歳のときにデイルヤーシン村虐殺事件が起こり、彼の一家は難民となった。上記はそういうパレスチナの内側の視点から描かれた短編集の中の一節だ。小説形式なだけに、パレスチナのその人に成り代わって、状景を想像しやすい。クゥエートへ出稼ぎに密入国しようとする男たち、少年たち。靴磨きの少年と難民キャンプの教師とのやりとり。救済期間の小麦粉を盗み出そうとする男たちの話、などなどなど。
数字や用語、地図だけではなかなか浮かんでこないイメージや生活を、容易く思い浮かべられるのが小説の力だ。
想像力の欠如。これは怖い。
空襲の下からの風景。人が殺される。吹っ飛ぶ。難民として故郷を失う。奪われるものの立場。
どちらかといえば奪う立場にいる僕らには、奪われるものの生活、心情は理解しにくい。きっと完全な理解なんてできないけれど、でもせめて想像することはできるし、その想像は様々な状況を変えていく力になるのだ、と僕は思う。
死亡者何万人だとか、あっさり数字でひとくくりしてしまうけれど、そのひとつひとつに命があり、ドラマがあることを想像してほしい。
耳を塞いで、あっさりと自分に言い訳をして片付けてしまっていいのだろうか?同情?否、「ひずみ」は大きければ大きいほど、いつか自分に、或いは自分の子どもに、未来に、降りかかってくる災難の序章なのだ。
知らないということは、罪なんだと、近頃、痛切に思う。知らなかったら調べてみよう。わからなかったら調べてみよう。そして想像してみよう。
明日はアトムの誕生日だ(今日はまんまと放映を見逃したけれど)。
いつも通勤途中に通り過ぎる高田馬場駅の音樂もアトムの曲になって久しいこともあって、ASTROBOYのサイトはたまにチェックしていた。このサイトの1月あたりから日々更新されている「天馬博士の開発日誌」がなかなか面白いのだ(ページは付箋や写真なんかで開けるのだけれど。ページの右上・左下の
トビオという息子を事故で亡くした天馬博士の飛雄プロジェクト。事故で死んだ息子を再生させる、半永久的に生きつづける息子を誕生させるという一種の狂気にも似た愛から生まれたプロジェクトなのだけれど。"圧倒的なパワーを持ってしか、社会の混乱は鎮められない"と信じてアトムに武器を持たせて誕生させようとする天馬博士と、"護身用とはいえ、あなたはピストルを懐に隠した者と安心して付き合えますか?人間と友達になりたいのに、ぼくはどうして武器を持っているんだろう?このロボットにそんな苦悩を与えるつもりですか?"と言い募る市井のロボット研究家お茶の水博士との議論は興味深い。生まれて来るアトムの幸せを願うのに、とろうとする手段は、果てしなく並行路線なのだ。
しかし結局アトムはお茶の水博士のもとで育つ。手塚治虫が伝えようとしたメッセージ。もう少し考えてみたい。
有事法ってヤバくない?
反戦デモへ行くと「劣化ウランを使うな!」とか「有事法制定反対!」というプラカードをときたま見かけて。イラクの戦争とのつながりはなんとなくわわかるし、有事、有事と周りを煽ってなんだかヤバげな法律の制定がどうのって、前から言ってたよな〜、と思っていたけれど。
雰囲氣はわかっても、中身につていはあまりわかっていなかった。気になったので、とりあえずの概略を知っておくべきだろう、と思って少し調べてみた(ネットって便利だ)。
YUJI*STORYというサイトのstory1〜8は、なかなかわかりやすくて、いいアイディアだ。
ユージくんというのが有事法で
ピースちゃんはまぁ平和を願う一市民。
それに瀕死の憲九郎君は憲法9条。
そんな具合にそれぞれの立場を擬人化して、具体的な事象へ落とし込んでいるので、立場を理解しやすい。
この法律が成立すれば
米→イラクのように、簡単に日本→朝鮮
の先制攻撃による戦争が簡単にできることがよくわかる。"有事"になったら、土地を没収されたり、言論の統制が行われたりするんだろうな、反対すれば法律違反で捕まっちゃうんだろうとは思っていたけれど、甘かった。まさか先制攻撃による戦争も可能にする法律だとは思わなかった。改憲しなくても有事法が成立すれば、完全に憲法9条は封じ込めらるというわけだ。これって、どんな美辞麗句を並べても実質、違憲っていうんじゃないの?それに先制攻撃は「侵略」というんだよ。日本を戦争の手先にしたいアメリカが促している法律だということもよくわかった(だからアメリカ大好きの連中は走狗と成り果てているわけか)。
戦後、憲法9条によって守られてきた日本だけれども、憲法9条がなくなるということは、武力によってしか身を守れなくなる、ということなんじゃないかな?「日本も普通の国のように」というけれど、別に普通の国じゃなくて結構だよ。軍事競争によって平和を維持するなんてむなしいだけじゃないか。こういう妄想的な側面を持つ競争は、どちらかがピリオドを打たなければ、果てしなく競争が続くだけじゃないか。ピリオドを打つ側に立つほうが、どれだけ先進的かしれやしない。
「脅威」「脅威」と実態もなくマスコミは煽るけれども、一体何が「脅威」なんだろう?誰に僕らは攻め込まれるというのだろう?どういう状況になると"彼ら"は日本に攻め込んでくるのか、よく考えてほしい。基本的に誰だって自滅はしたくない。よくも悪くも、軍事費世界第3位を誇る軍隊を持つ日本に、一体誰が?アメリカというバックもついているし、誰から見ても日本の方がよっぽど脅威だし、先制攻撃OKの法律が成立しようものなら、「イラクみたいに先制攻撃されるかもしれない」と自暴自棄にもなりたくなるよね。
先制攻撃で最初は仮に華やかに攻め込んできたとしても、反撃されるのは目に見えている。"彼ら"がもうにっちもさっちもいかない!!と追い詰められたときにこそ、戦いをしかけてくるんじゃないだろうか?だったら、追い詰めなければいいと僕は思うんだけれども、「有事法」なんてその対極なんだよね。こんなトンデモ法が(若年層はホント、有事法が呼び寄せる戦争の為に徴兵されるかもしれないんだから、よく考えたほうがいいと思うんだけど)、あわや制定されそうになっているなんて。マッタク、僕らはなんて議員を選んでいるんだろう。下は、まぁわかりきった話だとは思うけれど、時間のない人の為に選挙の参考までに政党別傾向を。とりあえず一事が万事、有事法について。
・自民党→賛成派
・公明党→賛成派(彼らホントに平和の党なのか???)
・民主党→元自民党系列は賛成ぽい。社会党系は反対派(ぐちゃぐちゃどっちつかずで論議しちゃって、国民は騙されちゃっているんじゃないの?ある意味、最悪の党だと思うんだけど…)
・社民党→反対派
・共産党→反対派
イラン、フランス、エジプト、ボスニア=ヘルツェゴビナ、ブルキナファソ、イギリス、メキシコ、イスラエル、インド、アメリカ、日本―― 各国の映画監督が9.11について撮った競作「セプテンバー11」。一篇の映画はそれぞれ全て11分9秒1フレーム。
興味深い試みだ。そしてこの試みは大方成功している、と思った。11の短編を通して1本の映画になったとき、たった11の視点に過ぎないのだけれど、"そうなんだ"と見えてくる世界がある。11カ国の11の視点からわかることは、9.11のことなど深く考える余裕もない「弱者」が世界の大多数を占めているということ。
アメリカの空爆で、イランで難民として過ごしているアフガニスタンの子どもたちもそうだし("知識階級"である学校の先生は一生懸命世界の大事件を子どもたちに伝え、黙祷をささげようと子どもたちに教えているのだが。肝心の子どもたち、そして彼らの親たちはといえば、一丸となって9.11の事件を余所に、黙々とアメリカの核爆弾に備えて、レンガでシェルターを造ろうと泥まみれになっている。漸く子どもたちを学校へ連れ戻し、先生は真剣に子どもたちに世界の大事件を教えようとするのだが、子どもたちは無邪気で、なかなか理解できない。しかしその無邪気な科白の中には、意味深長で、ドキッとさせられる科白の数々が…)、賞金目当てでビンラディンを捕まえようとするアフリカの少年たちの話(母親が病に倒れて、学校へ行けない少年が主人公。賞金があれば、薬も賄えるし、学校へも行けるし、エイズやマラリヤで苦しむ人も助けられる!と少年たちは無邪気に話し合う)。そしてたとえ先進国に住んでいたとしても、妻を亡くした孤独な生活を送る一人の老人の話(あぁしかしラストに初めて暗闇の生活から光の中で現実を目の当たりにしたとき。彼は妻のいないことに気づき、あまりの孤独に泣くのだ。喜びを共有できないことほど孤独なことはない、ということなのだろうか)。
そしてまた悪夢の民族浄化を体験したボスニア=ヘルツェゴビナと、日々自爆テロの起こっているイスラエルの物語はまるで対の双子のよう(ボスニア=ヘルツェゴビナの女性たちは、誰もいない広場で、あの9.11の日に静かに黙ってデモを続けていたし、一方エルサレムではテロの後の喧騒の最中なのだ)。ケン・ローチの作品は、愚直ともいえるほど真っ直ぐに、9月11日、1973年のまさにその日に起こったチリのクーデターについて語っている。NYの10倍以上もの人が命を落としたと言われるそれは、アメリカに後押しされた軍部によるテロなのだ(デモクラシーが資本主義に倒されていく様は…。"結局、非暴力は暴力に屈服させられるのか?デモクラシーは武力に沈黙させられるのか"と暗澹たる気持ちになった。日本からみてラテンアメリカというのは、地球の裏側で、遠い感じがするけれど。アメリカが自分の裏庭でやっていることは本当にむちゃくちゃだ。まぁその横暴さは裏庭だけじゃないけど)。
11のショートストーリー。まさに絶望的なほど傷だらけの世界だ。こうした弱者や事件、1つ1つの傷を振り返り、癒す余裕もないことが一番の問題なんじゃないのか?
11本の中で短篇として一番強烈だったのは、メキシコの監督が取った、まさに9.11そのもの。映画館という閉鎖空間をフルに使った作品だから、TVではゼッタイにこの強烈さはわからないだろう。映画館の中で映像は沈黙し、音声だけが入ってくる。目をつぶったような暗闇の中で、徐々に聞こえてくる人々の祈りのようなざわめき。9.11──あの日の混沌としたざわめき。ざわめく暗闇の中で、時折、白くフラッシュする映像。なんだろう、と暗やみの中、次の映像が閃くのをじッと待っていると。再びフラッシュ。トレードセンターが崩壊していくときの映像なのだ。あの日、各国で流れたであろう映像を引き延ばして拡大して、見せている。ビルから何かがバラバラと落ちている。人だ。煙にまかれて逃げようとしたのかどうか。バラバラと落ちる、巨大なビルに比べれば、哀れなほど小さい豆粒のようなヒトガタ。
強烈だった。ショックだった。トレードセンターへ行った時の光景が、自分の中で交錯する。気がついたらあまりのショックでぼろぼろ泣いていた。少し、アメリカのショックがわかる気がした。今年の2月にシカゴのナイトクラブで、暗やみの中でテロかと思い込んだアメリカ人が出口に殺到するというニュースがあったが。9.11がアメリカ人に与えたインパクトはそういう事件を起きうるに足るほどだったのだと、今さらながらに感じた。メキシコの監督の11分間は、9.11当日の混乱を体感させてくれる。あの日の情景が、極力排除した映像の中で、目に浮かぶようだった。恐ろしかった。
しかしだからといってあの日、あの現場にいた人々はテロの犯人を憎いと思ったのだろうか?なにか少し違う、と僕は違和感を覚える。それは多分、アメリカが投下した爆弾によって難民になったアフガニスタンの教師が、NYの悲劇に黙祷しようとしたように。静まり返った広場で、静かにデモをするボスニアの女たちのように。悲しみに暮れた人々の大多数は、憎悪とは異なる感情をもったのではないだろうか?圧倒的なショックと混乱の中で、"テロが憎い。だから報復するのが当然だ"という論理を口にできるものなのだろうか?"報復"を口にする人々の物言いは、第3者的目線で、なんだか冷え冷えとしたものを感ずるのだ。
アメリカが世界に示した価値観は最悪だ。
ニュースをみていた子どもたちは何を思うのだろう。
「どうして戦争をしているの?」という子どもの問いに、「利益のためだよ。そして強い方が正しいんだ」とオブラードに包むことすらできずに、大人は答えなくてはいけないのだろうか?(ある意味、見えやすい世界になったとも言えるけれど、大人としてどうなの?子どもはこの応えに希望をもてるの?)
大量破壊兵器をみつけ出すため?独裁政権の打倒が目的だって?そんなことがタテマエだということは、あまりにもあからさまで、下品で、とても恥ずかしくて僕にはいえない(「石油管理、米が「先手」−−国防総省、水面下で人選進め」とか「復興事業元請け先は米企業限定 米国際開発局」とか。新植民地主義もいいところだ。小泉も先日、「早く降伏すればいいのに」とか言ってたけれど、反戦を伴わない復興支援は単なるビジネスだし、『自分が手を下した当の人間の葬列に、平然と加わるような人間』のことを恥知らずと言うんじゃないのか?こんな凶暴な世界を僕は望まない)。
なのにアメリカの市民は「米大統領の仕事ぶり支持が71% 「再選望む」は51%」なのだそうだ。確かに9.11はショックだった。しかし、アルカイダとイラクは対立しているし(アルカイダが9.11を起こしたという明確な証拠も実は出てないと思うのだが…)、イラクが裏で9.11を支持していたなどという証拠も何一つ出ていない。「実際に攻撃をしかけてきたのかどうかはわからないけれど、とりあえず気に入らない奴は攻撃する」というとんでもない非論理が、71%の支持を受けているのだ。最大多数の幸福という制度の中でそれらが支持を得てしまっていることに、しかも、当然と思っていることに、薄ら寒い思いがする(最初の御旗だった大量破壊兵器の件だって一体、なんだってアメリカ市民の中では忘れ去られているのだ?※参考「戦争は前から計画されてた」ブリクス氏、査察軽視批判)。
バクダッドがあっけなく陥落したことにアメリカは得意げにふんぞり返っているけれども、この後にくる世界は、考えるだけでおぞましい。圧倒的な軍事力をもつアメリカに、楯突くものは排除される世界。一体、そういう世界に僕らはどういう希望が持てるのかわからない。
開戦後も、僕はアメリカ自身が「世論に動かされて」というカタチで兵を引きあげることを望んでいた(まるきり蜘蛛の糸のような希望だとも思っていたけれど)。武力が全てだということを許してしまったら、おしまいだと思っていたから。
アメリカは圧倒的な軍事力を誇示したことによって、アメリカ自身が「テロリスト」たちを正当化してしまった。少人数でしかもコストもあまりかからないテロという手法でしかアメリカとは戦えないということを知らしめてしまったのだ。そしてまた、武力こそが主張を通す手段なのだと、自ら武力の有効性を示して見せたのだ。アメリカを憎む人々は当然、テロリスト化するだろう。少なくともアメリカは「民主主義」を標榜しているのだから、政府を選んでしまった市民を、どうして区別する必要があるのだろう(事実、この戦争に71%市民は賛成してしまったのだから)、というのがテロリストの論理だ。そしてますますアメリカは、狙われる一般市民は、恐怖心から武装化し、脅威が脅威を呼ぶ、そういう世界が目に見えるようだ。
一体、こんなことをして、アメリカはどこへ突っ走る気なのだろう、とずっと考えていた。新植民地主義の是非はともかく、やり方があまりにも稚拙すぎる。今回のような「解決法」はなんの解決にもなっていないし、問題を広げるばかりで一体、この先、どうなっちまうんだろう?長期的に見て、アメリカにとってどういう利益があるというのだろう?石油の代償にしてはあまりにも大きすぎやしないか?
「人類が多すぎるから、二酸化炭素の問題にしても、エネルギー問題にしても、問題化するんだよね。人間の数が地球上から減れば、環境問題なんてホントは関係ないのにね」という話を環境問題系の話をしているとよく聞く。
最終的にアメリカのネオコンが目指している世界は、そういうことなんだろうか?
つまりアメリカ以外の国は全部、ぶっ潰す──大規模なジェノサイド。一般市民を騙す御旗はなんだっていい。
善良な一般アメリカ市民はきっと、「まさか自分たちの国がそんなことをするわけはない」と否定するだろうけれど、行き着く先は結局そういうことなんじゃないのかと勘ぐりたくもなる。アメリカ人以外の命は認めない。他国の人間を適当な理由で全員虐殺すれば、確かにアメリカは、環境問題も一気にチャラにして、この先も生き抜いていけるんだろうな、と。
話し合いなんて面倒なことは無意味だ。全員が生き残る必要はない。皆殺して、アメリカさえ無事であればいい。
「武力で全てを解決する、非暴力なんて幻想だ」という考え方の行き着く先の解決法とは、そういうことなんじゃないかと思う。
気になる現象、ニュースは沢山あるけれど。表層を追いかけても根本的な原因には辿りつけない気がして、少し本を讀んでいた。
ひとまず手に取ってみた本は『ラディカル・デモクラシー─可能性の政治学』(C.ダグラス・ラミス著)と『帝国との対決 イクバール・アフマド発言集』。『ラディカル・デモクラシー』の著者は、読んでから気づいたのだけれど、『世界がもし100人の村だったら』の対訳をつけたりしている人だ(沖縄に在住なので、筑紫さんのNews23などにもゲストでたまに出ているようだ)。今回の戦争でもやっぱり安っぽく「民主化」の御旗が掲げられていたけれども、ホントにそれは民主主義なのかよ(世論をとりあえず抑えるためのタテマエだというのはウンザリするほど見え透いていたけれど)、民主主義の定義って結局なんなのさ、というところから手に取ってみたのが、タイトルがまんま「ラディカル・デモクラシー」。教科書的に読みやすい本だった。話は産業革命というエポックメーキング、社会主義、資本主義に及び、帝国主義や新植民地主義にも触れる。アリストテレスやローマ帝国にまで遡り、触れる話題は広範で(でも一つの場所へ向かっている)、今後、僕が読まなくちゃいけないであろう、道筋も大雑把に少し見えた気がする。
感動的なのは『帝国との対決 イクバール・アフマド発言集』。流されることのない知識、分析力、洞察力は一級だし、移動空間の広大さもさることながら、彼の会っている人の幅広さにも驚きだ(ガンディーからアラファトまで。そしてガンディーの反帝国主義運動さえもナショナリズムの毒に犯されていたという批判を躊躇わない鋭さ。尤もガンディーやネルーがナショナリズムを利用したのは便上主義的なものであって、決して排他的しようという意図があったわけではないのだけれども)。そしてなにより感動的なのは、インタヴューの節々から伝わってくる彼の優しさだ。パルヴェーズ・フッドボーイのイクバール・アフマドへの追悼文の邦訳をネットで見つけたけれども、あぁそうだろう、と察することは僕にもできる。今はちょっとした興奮状態で、うまく考えがまとまらないのだけれど。とにかく示唆に富んでいて、彼のような人を見るにつけて、「視座」を養う必要を痛切に感ずる。個々の事象はバラバラにあるのではなく繋がっているのだから、一つを解決するには大筋を見通す必要があるのだ。
そして大事なのは、僕らが何を望んでいるのか、ということ。