引っ越してます。
流行のブログツールの機能そのものに興味を持って、移転しました(流行のMTではありませんが)。新天地はhttp://laika.bbzone.net/。
非常口→クドリャフカ
に変更です。
ブログのわりに今のところコメント不可だったり。
台風一過
なんと弟の出発は今日だそうで、明け方近くまで隣の部屋からガタガタ物音がしていた。徹夜のパッキング。弟らしいといえば弟らしい。
朝、皆が起きだしてからも、出発時刻ぎりぎりまで机にかじりき、マシンをいじったり荷物を詰め込んだり。余裕がないことこの上ない。挙句、「CD-Rもってない?」などと云ってくる始末(当然このテの在庫はいつだって管理しているクチだけど)。まぁ論文の提出が昨日で、今日出発のウズベク2ヶ月滞在となると、フィールドワークに行くわけだし、荷物もなんだかんだと大変にはなるのだろうけど、その騒ぎ、台風の如し。
もう見送るのには慣れた。自分も少しはあの頃より自由になっているのだろう。
あさのあつこ『バッテリー』
みんな、一途が好きなのだ。一生懸命な姿が、必死に努力する姿勢が、好きなのだ。一途にボールを追い、一途にバットをふる。汗をながし、泥まみれになって、時に涙を出しながら、成長していく少年たちが好きなのだ。それを見ていることが好きなのだ。感動したと泣き、励まされたと手をたたく。それは、そのまま、なにもしない者への批判となる。一途になにかを追い求めない者への、無為に時をすごす者への、いいかげんに生きている者への、なにも生みださない者への叱咤や嫌悪や軽蔑の刃になる。
うんざりしていた。他のやつのことは、わからない。しかし、自分のことだけは、わかる。おれは、もう一途で懸命な野球少年の役に飽き果てているんだ。だから、刃から逃げないことにした。誰がどう切りつけてこようとも、かわさないことにした。いいかげんで、中途半端で、どこからでも賞賛されない時間を生きてみる。
甲子園開幕、か。つい先日読んだ『バッテリー』の一節を思い出す。現在5巻まで刊行の児童書。引用は第五巻、瑞垣少年の独白から。野球が好きなのに、ただ「好き」であることに純粋になれるほどに無邪気ではいられず、他人から貼られるレッテルに押しつぶされて野球をやめようとしている少年の独白だ。潔いとも思う。でもそうやって捨てていったら空っぽになっていく。空っぽに。その空虚さに、耐える覚悟がある、と。彼は云うのだ。本当に。耐えられるのか。そうしてそこまで彼を追い込んでしまった、他人の無神経な価値の押し付けに、ぞッとする。そしてまた、今年も華やかな甲子園球状の賑わいをみるにつけ、ふとそうした残酷さを思い出すのだ。
物語は主人公であるところの少年が中学へあがる春休みからはじまる。天才ピッチャー原田巧と永田豪との出会い。2人の周囲の友達や先輩、大人たちの描写。繊細でいて力強く、つい夢中になって読んでしまう、そんな物語。本当にこれは児童書なのか。あぁそうとも。児童が読んだってきっと夢中になるのだろうけれど、大人が読んだって、夏の思い出を呼び起こさせられた気持ちになるのだ。苦くて熱い…。力強く生きなくては、と焦燥にも似た気持ちにさせられる。
逢坂剛『燃える地の果てに』
広島の原爆の日か。
戦後、祖父母が長崎に在住していただけに、被災地は長く自分の田舎だった。毎年夏休み中に長崎へ「帰る」と、平和記念式典が行われていて、原爆記念館、浦上天主堂は身近だった。「原爆」はつい意識してしまう。
逢坂剛の『燃える地の果てに』を読んだ。ひどい話。60年代にスペインの田舎町上空で空中給油をしていた米軍は墜落事故をおこすのだ。実はその事故を起こした爆撃機には、「暗黙の了解」で水爆を4基積んでいて、そのうちの1基を見失ってしまい…。──という実話を元にしたストーリー。
さすがは逢坂、過去と現在が絡み合う鮮やかな展開、ラストの大どんでん返し、と期待通り「うまさ」をみせつけてくれるわけだが。
実は何より私が驚いたのは、水爆をなくすという米軍の失態もさることながら、その失態が実話であるということ。この本を読むまでそんな事件がリアルにあったとは全く知らず、もしかして実話と思って調べたら、出るわ出るわ…。
やっぱり米軍は普段から核爆弾を積んでいるわけか。沖縄の米軍基地にも核爆弾を積んで出入りしているに決まっている、なんて話は聞いたことがあるけれど。それは事実なんだろうと、確信をもった。
なんだかひどい話。
夏カゼ便り
夏カゼをひいている。
自分の熱なのか、外気の暑さなのか。熱にうなされるような躰のダルさの根源は判然としない。温まればいいのか、冷やせばいいのか。よくわからないまま、一向に直る気配もない。
夏本番、と思ってエアコンの掃除を始めた。カゼをひいているのに…、とぶつぶつと思いながら、居間と祖父母の部屋と自分の部屋と計3台。フィルターを洗い、パネルも外して風呂場でごしごしとやる。居間にある冷房のパネルは少し大きくて、気楽に風呂場でごしごしやれるほど単純な仕組みでもなさそうなので、ひとまず廊下で綿棒など使って埃をとる。鼻をつまらせながらなにをやっているんだか、と思いつつ、気になり始めるととまらない。勢いあまって気になっていた2階の洗面台の掃除もはじめる。2週間前に白く磨き上げたばかりなのに、1週間経たずして何故か汚れはじめて…。大抵夜寝る前に気になってちょこっとした掃除をするのだが、朝になると既に汚れている。朝方まで起きている弟が怪しいと睨んでいるのだが、改まる様子はない。共用スペースの掃除はほとんど「我慢比べ」状態で(汚したヤツが掃除すればいいのにね、と思いつつ、「汚し逃げ」していくわけだ)、不毛な争いに結局根負けするのはいつも僕なのか…。釈然としない気持ちのまま、洗面台をごしごし磨いている自分にもなんだか腹が立つ。
猫と遊ぶ〜透明傘編

ロイとラブは、雨さえ降らなければ、必ず家へ寄っていく。ラブの方はまったりと遊ぶのが好きで、撫でられていれば、満足そうなそぶり。しかしロイの方の成長は著しい。出会ってからのこの2ヶ月近くで、かなり大人びてきて、身体も大きくなってきたし、網戸へ貼り付いて中を覗き込むような子供じみたマネは今ではすっかりしなくなった。玄関のドア付近で、ごろんと寝転び誰かが出てくるのをじッと待っているのだ。出てくれば遊ぶけど、出てこなければ、まぁ仕方がない。そんなスタンス(で、そろそろこの時間帯だと、ロイかラブがその辺を出歩いているんじゃないかと、ついつい僕らの方が探しに出かけてしまうわけで。相当の確率でみつけているんじゃないだろうか。どっちが遊ばれているんだか)。
行動範囲もかなり広がってきたようで、以前は道路を渡らない範囲でしか行動していなかったようだけれども、道路を渡った向かいの家の屋根に上っていたり、駐車場の方まで足を伸ばしている(環八の抜け道になっているので、意外と車の往来の多い通り。なので、危ないよ、出るんじゃないよ、とつい注意してしまうわけだが、道路を渡っていることは彼自身もなんとなく後ろめたいらしく、こそこそとそのときばかりは振り向きもせずに逃げ出すのだ。家の前では、それこそ犬のように走って追いかけてくるくせに)。
「遊び」の方もタイヘンで、前は単純に紐をひらひらさせたら一目散に追いかけてきて、塀の上でひらひらさせればさッと塀に飛び乗り、地面でひらひらさせれば、すぐさま降りて来ておいかけてきたものだった(相当な運動量だ。家に帰ったら、ばッたり寝ていたらしい。飼い主談)。けれども慣れてくると知恵も回ってきて、塀の上でひらひらさせようとも、いずれ下へ降りてくるだから、下で待っていようとか、油断するフリをして、紐が近づいてくるまでは寝転んでみたり。紐の「動き」も草叢を蛇のようにずるずると動くような感じで、とか。動かし方によって、「食いつき」が相当違うのだ。
獲物への「食いつき」はこちらの知恵次第。コマの紐(5円玉をつけているから重さがあるってイイのだ)にしてみたり、それに飽きると、荷造りの紐にしてみたり。ビニル袋も怪しげで猫によっては堪らないツールだから試してみたが、まぁ、じれったいのはロイの好みではないらしくすぐに飽きた。
今日は緑の平たい紐を使ってみたら、ものすごい食いつきで、必死で追いかけてきた。しかし一度つかまると、爪に引っかかる性質の紐だったので、つかまらないように注意していると、ロイは気をそらして隣の家の庭へ入っていった。傘を干していて、風に飛ばされて傘はひっくり返っていた。その中へ「どんぶらこ」といった感じで、のしのしロイは入っていく。傘の内側に、足跡はつくし爪でも出されたら破けてしまう、と思って、一旦、ロイを追い出したが(他人の家の傘だけど、まぁ、ロイが憎まれたらイヤだしね)、いいアイディアだと思って、早速家の中から、透明の古い100円傘を取り出して、庭に広げてみた。なんだなんだとロイは興味深そうに、僕が傘を広げているのを眺めていて、地面に置くと早速傘の中へ入ってきた。どんぶらこ。
透明傘なので、傘の下で、紐をひらひらとさせると、ロイは紐を追いかけてくる。ごろん。
ロイの体重が移動したせいで、傘が少し回転する。次のポイントで、紐をひらひらとさせる。ごろん。
傘はぐるぐると回るし、紐はどうあってもつかまらないし。そのうちどうもおかしいと気づいた彼は、知恵を振り絞って傘から降りて紐を直接追いかけようとするが、すると紐は傘の内側へ移動して、やっぱりつかまらない。かなりじれったい遊びだっただろうが、傘はダイナミックにごろごろ転がるし、まぁしばらくは傘ネタで遊べそうだ。なにしろ、ロイと遊ぶには知恵が要る。…猫バカだな。
マイナス投票
News23では野中広務さんが出ていた。自民党だけど彼はまともだよな、と思う。
イラク特措法案等に関する記名投票を要求している、という話を聞いて(起立投票では誰が賛成しているんだか、わけがわからず無責任だ、という論理。後世に恥じない選択をしている、というのなら、堂々と記名して記録として残せ、というわけだ)、そういえば、イラク戦争に関しては、[イラク攻撃に関する国会議員公開アンケート]というサイトがあったことを思い出す。特措法や重要法案に関しても、このテのデータは欲しいところだ。
オストラシズム(陶辺追放制度)は復活しないのだろうか、と思うこの頃。当然、専制者の出現を危惧しているから思うわけだが。プラス投票だけでなくマイナス投票もあればいいのに(マイナス投票された分を差っぴくわけだ)。プラス票を獲得しても、マイナス投票も集まって、一発逆転、なんてことも起きるだろう。
選挙で思い出すのは、中学校の生徒会。
立候補する人間は稀な存在で、3年間ずっと信任投票だった気がする。しかし信任投票とはいえ、投票行為そのものは存在する。僕らが1年生だったとき、1年生による不信任投票があまりにも多いので、大騒ぎになったことがある。投票翌日のHRで、1年生はクラス毎に担任から説教されたのだ(担任のなかには、どうしてよいかわからず、泣き出した教師もいたとか)。
"頑張って立候補している人に頑張れの意味をこめて、一票を投じることに意味があり、不信任投票なんてとんでもない。他に候補もいないのに不信任するなら自分が立候補しろ"という理屈なのだろう。
しかし投票をする生徒の気分としては、信任・不信任の選択肢があれば、全て信任に○をつけるよりも、まばらに不信任も選択してみせるほうが「まじめ」に投票を考えている、という理屈があったのではないかと思う。
今考えてみても、今考えるとなおさら。先生たちの理屈は奇妙に思える。先生方の選挙の気分は「友だち」感覚なのだ。友達が頑張っているから、応援してやれ。選挙行為をその域におしこめているわけだ。なんというか、クソの役にも立たないナンセンスさ。選挙行為が、やはり(?)それくらいの意味合いしかもたないというのなら、そもそも投票自体をやめればいいのだ。有権者になったときの、予行練習的意味合いをもつ勉強であるからこそ、信任投票だろうと行事として投票行為を続行しているのだと思う。しかし不信任投票を非難し、あくまでも「友達」感覚であるとわざわざ「教育」(説教と言い換えてもいい)するというのなら、ナンセンス。いや、有害でさえある。
不信任はマイナス投票の意味合いをもち、システムとしてのその辺の意味合いも話し合ってみたら面白かっただろうに、と今更思ってみたり。何故、社会科の教師たちはテーマとして持ち出さなかったのか。「羊」のような顔をした恐ろしい他の教師といざこざを起こしたくなかったから?
非 常 口 / E X I T

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職業: 印刷屋のえせプログラマー
- 映画:古い白黒フィルムをぼんやり眺めるのが近頃の気に入り。映画館で眠るのも好き。
[BEST]アンダーグラウンド・黒猫白猫・薔薇の葬列・ベティーブルー - 本:ジャンルはいずれも。ムラっ気。集中的に読み漁る時期と全く読まない時期と。
- 常備酒:ビール(スーパードライ)・ジン(ゴードン)・ウィスキー(ダブルで)・ウォッカ・ブランデー(紅茶に入れて)。日本酒はあればそれなり。
- 旅:行ったみたいなよその国。専ら一人でふらふら。馬に乗ってモンゴルの草原を走りたい。
- 空:空を眺めます。晴天の青空もたまらない開放感があるけれど、冬の夜空も見ていて飽きません。つい先日、僕の名前は
宇宙 へと旅だっていきました。2005年夏に小惑星1998SF36へ到着予定。
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